──書を磨く三本柱、修養と感性の循環
書を学ぶとは、「線」ではなく「人間」を磨くこと
書道とは、単なる字のうまさを競う技術ではありません。そこには「自らの精神を文字というかたちで昇華させる」という深い修養の意味があります。
その書の道を歩むための基本的な“軸”として、中国古来の書論家たちが掲げたのが、次の三要(さんよう)です:
- 天分(てんぶん):生まれもった感性・気質
- 多書(たしょ):数多く筆をとる経験と反復
- 多見(たけん):優れた書を多く観察し学ぶこと
この三要は、単独で完結するものではなく、相互に補い合いながら“書の人格”を形成していく循環構造を持っています。
第1の要「天分」──書の出発点としての感性
「天分」は天才ではなく“傾向”である
「天分」と聞くと、生まれながらの“天才”を想像しがちですが、ここでいう天分はもっと広義です。
- 空間の捉え方に自然なバランス感覚がある
- 線の抑揚に柔らかさや鋭さが表れる
- 書く際の集中力や呼吸が深い
こうした感性や集中力、観察力の傾向を「天分」と呼びます。つまり、“磨けば育つ”ものなのです。
天分を育てる方法
- 自然との接点を増やす(空間・呼吸・気の流れを感じる)
- 日々の観察を丁寧に行う(街の看板、古文書など)
- 身体感覚を高める稽古(筆の重さ、紙の抵抗、墨の湿度)
とくに、書道と密接な関係にある禅や茶道などの“静”の稽古は、天分を内面から育てるのに非常に効果的です。
第2の要「多書」──体で覚える、線の哲学
書かねば身につかない:量こそ質の源
「多書」は、文字通り“たくさん書く”こと。書道における実技鍛錬の要です。
「書は工夫を貴ぶ。工夫は反復にあり」
この言葉が示すように、書道では反復練習によってしか得られない「線の自然さ」「身体との一体感」が重要視されます。
多書の質を高める“意識化”のコツ
単なる枚数ではなく、意識を伴った多書が求められます:
- 狙いを定めて書く(起筆・送筆・収筆など1点に集中)
- その場で振り返る(1枚書いたらすぐ観察)
- 期間を空けて比較する(数日後に並べて観察)
また、「臨書→創作→再臨書」の反復循環が、多書の効果を倍増させるとされています。
書き方のバリエーションを持つ
- 硬筆(ボールペンや鉛筆)も活用
- 墨の濃さを変える
- 紙質や筆のサイズを変えてみる
多様な書環境を経験することで、筆の操作に柔軟性が生まれ、応用力が育ちます。
第3の要「多見」──観る力が書を変える
書は“見て学ぶ”芸術
「多見」は、優れた書をよく見ることによって、自らの審美眼と構成力を養うことです。これは単なる“鑑賞”ではなく、深い“読み取り”です。
具体的には:
- 王羲之、顔真卿、欧陽詢などの古典名筆を臨書前に熟読
- 書展や展覧会で多様な作品に触れる
- 現代作家の創作から「時代の気」を読む
見るときの3つの視点
- 構成:紙面のバランス、行間、文字の配列
- 線:墨量、起筆と収筆の処理、抑揚
- 気:作品に漂う精神性、リズム、静と動の交差
このような視点で他者の書を観察することにより、自らの書にも「客観の目」が宿ります。
「多見」が「天分」と「多書」を支える
観ることは、書くことの“土台”です。観察力が鋭ければ、自分の書の微細な狂いにも気づけるようになります。
また、多見によって触れた書の“美意識”は、無意識のうちに天分(感性)を育て、書く方向性を導いてくれるのです。
三要は“車の三輪”:欠ければ進めない
「天分」「多書」「多見」は、それぞれが独立しているのではなく、相補関係にあります。
- 天分があっても、練習しなければ枯れる
- 多書しても、見る目がなければ方向性を失う
- 多見しても、自ら書かなければ実力は育たない
この三要はちょうど「車の三輪」のようなもの。どれか1つが欠けると、書の道は前に進まなくなるのです。
まとめ:書の道は「三要の循環」にある
書道は一朝一夕に上達するものではありません。だが、「天分」「多書」「多見」という三要を心に据えた修練を重ねることで、書は単なる技術から“人格のあらわれ”へと変化していきます。
そのとき初めて、書道は“書の術”から“書の道”となるのです。
あなたの筆に、三要が宿るその日まで──。
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