史晨碑の概要
史晨碑は後漢の霊帝の治世にあたる建寧二年(169年)に立てられた碑文です。この碑は山東省曲阜市にある孔子廟の東廡(とうぶ)、「漢魏碑刻陳列室」(通称:孔廟碑林)に保存されています。孔廟碑林には44種類の石碑が展示されており、そのうち漢代の石碑は18種類あります。史晨碑もその一つとして重要視されています。
碑石のサイズは高さ231cm、幅112cmです。碑文は表面(碑陽)に17行、各行に36文字、合計626文字が刻まれており、裏面(碑陰)には14行、各行に36文字、合計424文字が刻まれています。題額はありませんが、一般的に表面の碑文を「前碑」、裏面の碑文を「後碑」と呼びます。また、後碑の碑末には唐の天授二年(691年)の楷書による題記が刻まれています。
史晨碑の多様な名称
史晨碑の前碑は、様々な名称で呼ばれています。代表的なものとして以下の名前が挙げられます。
- 魯相晨孔子廟碑(『集古録跋尾』巻三)
- 魯相史晨祠孔廟奏銘(『隷釈』巻一)
- 魯相史伯時供祀孔子廟碑(『金石史』巻上)
- 史晨請出家穀祀孔廟碑(『金石文字記』巻一)
- 魯相史晨奏祀孔子廟碑(『両漢金石記』巻六)
- 魯相史晨祀孔子奏銘(『金石萃偏』巻一三)
これらの名称は、史晨碑の内容や目的に関連しています。一方、後碑は主に「史晨饗孔廟後碑」(『隷釈』巻一)と呼ばれますが、『金石史』では「魯相史伯時供祀孔子廟後碑」とも呼ばれています。史晨の姓は前碑には記されていませんが、後碑に見えるため、『金石史』が「史伯時」という名前を冠したのは彼の字(あざな)によるものです。
史晨碑の内容
史晨碑には「前碑」と「後碑」があり、石碑の両面に刻されています。
前碑の内容
前碑には、史晨が時の尚書(皇帝の秘書官)に宛てた上表文がそのまま碑文として刻まれています。内容は以下のように構成されています。
前段
建寧元年(168年)の秋に、史晨が魯国の相として着任した。泮宮(学校)で秋餐の礼を行い、孔子の故宅においてその神位を拝した。史晨自身の俸給を割いて仮に祭器を整えた。
後段
孔子の生国でありながら十分に祭られていないことを嘆き、社禝の祭費を充てて礼にのっとり春秋に祭祀を行うよう奏請。奏状の副本を太傅ほかの所要機関に送ったことも併記。
後碑の内容
後碑は、史晨自身が孔廟および孔墓を修理・保護した行実を称揚するものです。以下のような内容が記されています。
前段
建寧二年の春に史晨が孔子の故宅でその霊を祭った。史晨の奏状と銘を刻石したことに触れる。長史李謙敬譲以下の官吏や孔子一門の人々、泮宮の先生や学生など907人が参列し、立派な祭典を挙行。
中段
饗廟の後、部下の仇誧らに孔子故宅内の各所を補修させた。里民に負担をかけないよう廟内の空地から得た麦価を諸経費に充てた。
後段
史晨が里人のために新たな市場を設けた。孔子の塚墓と顔氏(孔子の母方)の井舎および魯公の家に仮に4人の守衛を置いた。
北宋時代の記録と碑の断裂
北宋の趙明誠の『金石録』巻十六には「謁孔子冢文」碑として言及されていますが、当時すでに断裂していました。ただし「建寧元年三月十八日丙申、晨」、「其四月十一日戌子到官、以令日拝孔子冢」という記載があり、この「謁孔子冢文」の「晨」も史晨のことを指すと考えられますが、他に触れるものはなく、拓本も伝わっていません。
史晨碑の書法と評価
史晨碑は、八分隷書として古来から高く評価されています。以下は、歴史的な書評や評価の一部です。
孫承沢(1592-1678年)の『庚子銷夏記』巻五
- 「爾雅超逸、百世の模諧と為す。漢石の最も佳なるものなり」と褒めています。
- ただし、礼器碑と曹全碑を「書法の美なる、旧石の完なる、書家 この書(礼器碑) と曹全碑を得てこれに従事すれば、他は問うなかるべし」と極褒しています。つまり、史晨碑は礼器碑や曹全碑には一歩譲ると見ています。
王澍(1647-1720年)の『虚舟題跋』
- 「われ孔龢(乙瑛)・韓勅(礼器)・史晨の三碑をもって、挙げて学ぶ者にしめさん。おもえらく、遒古は孔龢にしくはなく、清超は韓勅にしくはなく、粛括は史晨にしくはなし」と評価。
- さらに、「乙瑛は雄古、韓勅は変化、史晨は謹厳。ともに漢隷の極則なり。隷を学ぶものは、すべからく史晨に始めてもってその趣を正し、これを乙瑛に中ててもってその大を究め、これを韓勅に極めてその変を尽くすべし」と述べています。
萬経(1659-1741年)の『分隷偶存』
- 「両碑(前碑・後碑)の字は、修飾緊密、矩度森然にして、程不識(漢の勇将)の帥(ぐんたい)の、歩伍整斉として犯すべからざるがごとし。その品格は、まさに卒史(乙瑛)・韓勅(礼器)の右に存るべし」と極褒。
- つまり、史晨碑は緊密な結構と書法に優れ、犯しがたい気品を持つと評価されています。
方朔(1699-1754年)の『枕経堂金石書画題跋』巻三
- 「書法は則ち粛括宏深、沈古遒勁にして、結構と意度ともに備わる。まことに廟堂の品、八分の正宗なり」と高く評価。
- 方朔は清代の学者で、この碑の書法の価値を特に強調しています。
拓本と碑の保存状態
史晨碑の拓本は乾隆以前の清初拓や明拓が比較的多く存在します。ただし、明拓と称されるもののほとんどは一行35字のものでした。乾隆時代に入ると、孔廟の管理者が碑身を引き上げ、36字本の精拓本が作られるようになりました。この精拓本は史晨碑の全貌を明らかにし、現在の研究の基礎となっています。
碑身がいつ頃から碑台に沈んだかは不明ですが、何紹基の旧蔵の明初拓残本が36字本であることから、碑身の沈下は明代以降と考えられます。拓本の新旧については、王壮弘の『増補校碑随筆』や張彦生の『善本碑帖録』などで詳細に述べられています。
史晨碑の書法の特質
史晨碑の書法は、八分隷の中でも淡泊で素直なものとされています。波法や撇法を忠実に守りつつも、特に力んだ風は見られず、平淡な趣が特徴です。それでいて、引き締まった構成が見られ、静まり返った長い呼吸を感じさせる姿態が魅力です。
礼器碑や乙瑛碑など他の漢隷と比較すると、史晨碑の書法は控えめで慎み深い性格を持っています。礼器碑の派手な書法や乙瑛碑の力強い点画とは異なり、史晨碑の淡泊さは特に初心者にとって学びやすい書法とされています。
史晨碑の歴史的背景
史晨碑は、後漢時代の政治的背景や孔子観とも深く関わっています。碑文には、孔子を素王とする考えが表れ、『春秋』の制作によって漢の制度を明らかにしたとされています。このような孔子観は、後漢時代の儒教の発展と密接に関わっています。
後漢時代の政治的背景と儒教の復興
史晨碑が建立された後漢時代は、儒教が国家の中心的な思想として確立され、政治や文化の重要な基盤となっていました。後漢の霊帝(在位:168年 – 189年)の治世は、中央政府が弱体化し、地方の豪族が力を増していく時代でもありました。このような混乱の中で、儒教の教えが社会秩序の維持や政治的正統性の確立に重要な役割を果たすこととなりました。
史晨とその役割
史晨は後漢の魯国(現在の山東省曲阜市)における地方官であり、孔子の故郷であるこの地の相(地方長官)として着任しました。彼は儒教の教えに深く影響を受け、孔子を敬愛し、その思想を広めるために尽力しました。史晨が建立した碑文は、孔子廟に対する彼の崇敬とその修復・祭祀の努力を記録しています。
孔子観と儒教の教え
史晨碑には、孔子を「素王」とする考えが表れています。素王とは、徳をもって治める理想的な君主のことであり、孔子がその代表とされました。碑文には、『春秋』を制作し、漢の制度を明らかにした孔子の業績が称えられています。このような孔子観は、後漢時代の儒教の発展と密接に関わっており、儒教の教えが社会の安定と秩序の基盤として重視されていたことを示しています。
孔子廟の修復と祭祀の復活
史晨碑が建てられた背景には、孔子廟の修復と祭祀の復活があります。孔子廟は、儒教の祖である孔子を祭る場所であり、後漢時代にはその重要性が再認識されていました。史晨は、自らの俸給を割いて祭器を整え、孔子廟の修復を行い、定期的な祭祀を復活させました。彼の努力により、孔子の精神が再び地元に息づくこととなりました。
まとめ
史晨碑は、その歴史的意義と書法の美しさから、後漢時代の代表的な碑文として広く知られています。孔廟に保存されている他の漢碑と共に、史晨碑は儒教の尊崇と孔子廟の歴史を今に伝える重要な文化財です。後漢時代の政治的背景や孔子観を理解する上でも、史晨碑は貴重な資料であり、その書法の淡泊さと引き締まった構成は、現代の書法愛好者にとっても大きな魅力となっています。
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